おばあちゃん、元気でね

2004.01.27 03:23

 おばあちゃんが死んだ。
 わたしは、ずっと、この日が来るのが怖かった。

 一緒に暮らしていたおばあちゃんは、私にとっていちばん身近にいる年寄りだった。小学生のときから、おばあちゃん=年寄り=死が近いと感じていたのだと思う。今にして思えば、当時おばあちゃんは60代後半。まだ若い。でも子どもにとっては、自分のおばあちゃんというだけでもう十分年寄りだったのだ。

 小学生のころ、両親と西新宿の高層ビル街へ行った日のこと。いつものように三角ビルの展望台へ昇ってコックドールで食事をしたあと、普段ならそのまま家に帰るところを、たまたま通りかかった三井ビルの半地下で無料コンサートをやっているのを見かけてひととき聴いていった。家へ帰ってきてみると、おばあちゃんが玄関の前で座っていて、気分が悪いという。私はコンサートに寄って帰宅が遅くなったことを後悔した。おばあちゃんを家で一人で待たせてしまった。もう絶対コンサートなんか寄ってこないから、と思った。

 おばあちゃんは私の誕生日に、いつもお祝いとしてお金を包んでくれた。
”由希ちゃん16才のおたんじょう日おめでとう”
”17才のおたんじょう日おめでとう”
”うるわしき18才のおたんじょう日おめでとう”
 お金を包んでいた半紙の上には、毎年おばあちゃんが書いてくれた文字があった。いつからか私はそれを捨てることができず、ずっと紙入れにしまっておいた。あれはどこにいってしまったのだろう。実家を出たり、海外へ行ってしまったりして、その紙入れ自体が今はもうどこにあるのかわからない。

 おばあちゃんが癌だとわかったのは、昨年の夏のことだった。98歳にもなって、癌。この歳では手術はもう無理だ、放射線治療も体には負担が大きすぎる、という話を聞いてうなずくしかなかった。せめてもの救いは、高齢ゆえに癌の進行がゆっくりだろうということ。残された時間はまだある。元気なうちにおばあちゃんに会おう。昨年秋に一時帰国したのは、そういう思いもあったからだ。
 再びベルリンに戻ってから、年が明けて1月21日に家族からおばあちゃん危篤の連絡を受けるまで、時間は思いのほか早かった。そして、23日の夜に私が日本に着いたときには、おばあちゃんはもう、その日の朝に死んでいた。

 生きているうちに会えたら、何か違っていたのだろうか。せめてもう一度手を握りたかった。でも、それは残された者のエゴでしかないのはわかっている。

「おばあちゃんは怒ったことがなかった」
「いつもやさしかった」
 死んだとたんに、おばあちゃんについて語られるすべてのことは過去形になる。もうこの世にはいない。二度と会うことはできない。
 道往く人、特に年寄りを見ると「この人たちは生きている」と思う。「生きて動いている」と思う。

 生きていることと、死んでいることは違うのか。
 以前、死んだ祖父母の霊を見る子どもたちの本を編集したことがある。霊と対話する子どもの姿を見た親は、わが子が死んだ祖父母たちに守られていると感じると書かれていた。確かに死んでしまった人たちだけれども、こうして会うことができるのだと。
 私にはそんな能力は一切ないけれども、おばあちゃんのことを考えているとき、そこに生死の別はないような気がする。たとえば私がベルリンでおばあちゃんのことを考えるとき、おばあちゃんが日本で生きていても、いなくても、私のなかでは変わらないのではないか。いや、やはり違うのだろうか。もう新しい思い出をふやすことはできない。わからない。

 残された者には現実の世界がある。泣いてばかりいるわけではない。
 お通夜の前日、棺の中のおばあちゃんと会えたときは悲しかった。涙が出た。でもその足で私は家族とともにイタリア料理屋に行き、パスタコースを注文し、デザートまで平らげた。生きているとはそういうことだ。

 おばあちゃんの話をここに書こうかどうか、とても迷った。このサイトは私個人のものだけれども、プライベートな出来事をそのまま書くつもりはない。
 でも自分がすっきりするために書きたいと思った。だから私のエゴに、みなさんを付き合わせてしまってごめんなさいと思う。もし、最後まで読んでくれたのなら、付き合ってくれてありがとう。

 おばあちゃんは今年、数えで100歳。最期は自分の子どもたちに看取られて、きっとさびしくなかったと思う。今日のお葬式にもたくさんの人が来てくれた。
 よかったね、おばあちゃん。じゃあ、元気でね。

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緊急一時帰国

2004.01.22 02:24

 新生活が始まったばかりですが、家族が病気のため、緊急に一時帰国します。詳しくはまた時間ができたときに。

引っ越しました

2004.01.20 23:40

 きのう月曜日に引っ越しました。といっても私が持って行った荷物はかばん2つだけ。本当はスーツケースも引っ張っていくはずだったのに、当日の朝、ふと窓の外を見たら地面が真っ白。雪ぃ? しかもガンガン降っている。これじゃあスーツケースとかばん2つをいっぺんに運ぶのは無理か、2往復しようかなあ、でも面倒くさいし、などと考えているうちに友人が帰ってきた。「これ全部持ってくの?明日でよければ引越し先のほうに行く用事があるから車で運んであげる」と言ってくれて、これ幸いとお願いした。いやー、助かったー。それ以外にも私の荷物はまだたくさん地下室に置かせてもらってるのだ。何にも買ってないはずなのに、なんでこんなにモノが増えるのか不思議でしょうがない。

 とにかく友人のおかげで、引っ越しとは思えない身軽さで新居に到着。新しい同居人が迎えてくれた。
 今度はドイツ人女性と私の2人住まい。ここに住むことになったのは、私がWG(ヴェーゲー=ルームシェア)サイトに部屋を探しているという告知を載せたのがきっかけ。それを見た彼女が私にメールをくれて、そのとき私は日本に一時帰国中だったのだけど、日本とベルリンで連絡を取り合って、私がベルリンに戻ってすぐに部屋を見学しに行った。
 そのとき初めて今回の同居人とご対面。メールでやり取りしていたときの印象とはずいぶん違ったので、意外だった。もっとパキパキとビジネスライクな人なんじゃないかと勝手に想像していたけど、実際に会ってみたらすっごく物腰柔らかで、なーんかいい人そう。で、まずは部屋を見て、家賃を確認。私にとっては十分な条件だったので、その時点でいいなと思った。
 その後、まあちょっと話でも、ということでお茶を飲みながら歓談。お互いの自己紹介から始まって、仕事のこと、生まれ月の星座のこと、果ては彼女の元カレの話まで飛び出した。そうこうするうちに時間がたって、今度は彼女がワインのボトルを持ち出してきて、一杯やりながらさらに歓談。初めて会った人なのにねえ。
 彼女の職業はドイツ語の教師。外国人にドイツ語を教えているのだ。これって私にとって理想的でしょ!? 家でプライベート・レッスンを受けているようなものだもの。ドイツ語の質問があったら、すぐに答えてくれるしね。しかもプロだから、外国人にとってドイツ語のどこが難しいのか、ちゃんとつぼを押さえているわけ。
 年齢は私よりも下なのだけど、最初は絶対年上だと思った。雰囲気がずいぶん落ち着いているから。もっとも、私自身に年相応の重みが一向に出てこないというのもあるが……。年齢は確実に重ねているのだが。それで、彼女がドイツ語教師ということも手伝って、なんとなくお姉さんのような気がしてしまう。

 さて、これからどんな生活が始まるか。ベルリン2度目のWGの、はじまりはじまり。

お世話になりました

2004.01.18 23:58

 明日引っ越します。友人が6週間に及ぶバカンスから帰ってきて、留守のあいだ好き勝手に使わせてもらっていた彼女の部屋を出ることにしたので。
 彼女の部屋を使えることになったのは、偶然のことからだった。本当だったら日本からベルリンに戻ってきた12月から、新しい住まいに移らなくてはならなかったのだけど、私が部屋を探していたのは10月上旬。私は誰かと住まいをシェア(ドイツ語でWG=ヴェーゲー)することが希望で、ウェブサイトとかで探していたもののまだ早すぎて物件が出ていなかった。WGは間際にならないとなかなか情報が出てこないから。
 で、そのことを彼女にふともらしたら「12月はちょうど私はバカンスでいないのよ。そのあいだうちに住めばいいじゃないの!」ってことになって即決。しかも、家賃は払わなくてもいいよ、光熱費と電話代だけでいいから、といってくれた。なんて親切なの!
 折に触れ思うのだけど、私はここで本当にいい人たちと出会っている。いろんな人が私を助けてくれて、新しいきっかけを与えてくれる。
 彼女もそんな一人。本当にどうもありがとう。お世話になりました。

 明日からは新しい住まいからの更新です。今度の同居人のドイツ人女性がこれまたいい人そうなんだ。ということで、次回は新しい住まいと新しい同居人のこと。

紙は破れたほうがいい

2004.01.15 23:54

 先週あたりから鼻がむずがゆく、なんかツーンとする。そして次の瞬間にはツーッと鼻水が流れている。これって、アレルギー? でも何のだろ。
 こうなってくると欠かせないのがちり紙。でもこっちのちり紙って、厚い上に4枚重ね。こんなので鼻かんでたら皮がむけちゃいそう。なんでこんなに硬いのかなあ。鼻が高いドイツ人には、このぐらいかみごたえのある硬さじゃないとだめなのか。私が鼻をかむときは、ぴったりくっついたその4枚を、必死に爪ではがして2枚重ね状態にして使っている。その光景は、あんまり人に見られたくない。
 そういえば、以前ちり紙のテレビCMで、「ひっぱっても破れない」なんてのを売り物にしていたのがあったけど、いや、ちり紙って適度に破れてほしいもんでしょう。 ああ、中央線の駅前でしょっちゅう配ってた武富士のポケットティッシュ。ください〜。

 あと、紙といえば、トイレットペーパー。この国の人はとにかく何重にも重なっているのが好きらしく、2枚、3枚は当たり前。4枚重ねなんてのもあったりして、痔じゃあるまいし、そんなに重ねなくてもいいだろうに。それってエコ的視点から見たらどうなんだ?
 私は日本ではトイレットペーパーはシングル派だったのに。そんなのここじゃあ、ありゃしない。とりあえず今はダブルで妥協中。

広告の性表現を考える

2004.01.11 23:17

 西洋人が日本を訪れると、青年誌マンガとか公衆電話に貼ってある風俗の貼紙を見て「子どもが簡単に見られるようなところに、不適当な性の表現がある。信じられない」と言っているとかいう話を聞く。私は実際にそう言っている西洋人に会ったことはないけど、まあ、そうなのかもしれない。

 でもちょっと待ってよ。私に言わせれば、ドイツの広告もどうなのよ。ベルリンに来て以来、うすうす感じてはいたのだけど、この国の広告写真、性的なものばっかりじゃないの。商品とはまったく関係ないのにハダカの写真が使われてたりとか、やたらと男女が絡んでたりとか、ゲイ狙いだかなんだかしらないけどハダカの男がカメラ目線で微笑んでたりとか、そんなのばっか。こっちに暮らして半年も過ぎるころには、そんな広告のクリエイティブを見るたびにウッて感じで吐き気がするようになったわよ。
 確かに裸っていうのは最も強力なアイキャッチ効果がある。中でも女のハダカは万人が瞬間的に目で追うもの。私もつい見てしまう。
 だけど、だけどよ。だからといって安易に広告に裸の写真を使うのは、広告を作る側として恥ずかしくないのか!? もっとも芸がないクリエイティブじゃないか。たとえクライアントがそれを求めたとしても、裸を使う以上のクリエイティブでクライアントをうならせたいと思わないのか?

 ここでまた別の問題になるのだが、この裸がまた日本人にとっては攻撃的でエロスのかけらもない。西洋人の裸は筋骨隆々。それだけでも十分攻撃的なのに、女の場合は挑発的な目線でこっちをにらんでいたり、もろ感じてます、っていう表情を浮かべてたり。メイクはもちろん、目の周りをがっちりとアイラインで囲んだセクシー仕様。それを街のあちこちでいやおうなく見せられるんだから、まったく疲れるよ。これって立派な公害!
 この性とエロスに関する問題はちょっと1回では書ききれないので、気が向いたときにいつかまた。

キュートな社会主義

2004.01.07 16:09

 この写真、昨年のうちに紹介しようと思っていたのだけど、地下鉄U2線のAlexanderplatz(アレキサンダープラッツ)駅にあるアート。本来なら広告看板に使うところを、ここでは以前からいろんなアーティストたちが作品を発表しているんです。
 DDRというのは旧東ドイツのこと。社会主義も資本主義の手にかかったら、たちまちポップな商品になってしまうってことかな。いろんなデザインのDDRロゴがホームの端から端まで並んでいるので、気に入ったものを探してみたり。日本も不景気で広告が入らないなら、こういう場を設けるのも粋ってものかもよ。

寒さはすべてを萎えさせる

2004.01.05 23:34

 こう寒くちゃあ、外に出るに出られない。日曜日は今年初のフリマ詣でをしたものの、あまりの寒さにさっさと撤退。家にこもってじっとする。今日も外の温度表示を見たらマイナス5度。これでも昨シーズンよりはマシなんだけどねえ。
 で、家にいるんだからたまり気味の(ちょっとだけよ)原稿をさっさと書けよと思ったんだけど、意志薄弱なためできずにうだうだ。書く気はあるくせに、書くまでが異様に時間がかかるんだよなあ。結局夜になってから書き始めて、終わってみたら深夜、明け方なんてことばかり。そうだ、パソコンに入れてあるゲームがいけない。あれがあるから私の時間は数時間単位で消えていくんだ。
 ああ、くだらない自分の話ばかり書いてしまった。一応このコーナーのモットーは、何かテーマを設けて書くことだったのに。すべて寒いのがいけない!

明けて2004年

2004.01.02 16:00

 あけましておめでとうございます。クボマガでは、本年も生活の瑣末な出来事をたくさん綴っていこうと思っています。本年もどうぞよろしくお願いします。

 さて2004年の年明け。2003年最後のクボマガ”tagebuch”コーナーを大晦日に書いたあと、夜から友人宅のパーティへお出かけ。このお宅にはおととしの大晦日にもお邪魔しているので、2年連続の参加。知った顔もちらほら見える。
 12時前になっておととし同様、屋根に上る。今回は友人が花火を買ってくれていたので、みんなで火をつけあって盛り上がった。街でもあちこちでいっせいに花火があがっている。そこに、鳴り響く教会の鐘。"Frohes Neues Jahr!(新年おめでとう)"と叫んで互いに抱き合い、2004年は始まった。日本のお正月もいいけど、このベルリンのにぎやかな年明けも私は好き。
 明け方近くになって、今度は別の友人が働いているクラブへ。みんなまだまだ元気に踊っていた。
 今年のこの時期はここにいられるかどうかわからない。だから海外にいると、一日一日がすごく大切。私は2003年、やりたいことを全うしたかなあ。一年前と比べて、私は何かを得ただろうか。
 やりたいこと、やるべきことは次々と出てくるのだけれど、そんなに欲張ってみたところでできることは知れている。だからとにかく自分がやれることをね、きちんとやりたいと思う。なんてことをつらつら考えてしまうのも、新年ならではよね。