おばあちゃんが死んだ。
わたしは、ずっと、この日が来るのが怖かった。
一緒に暮らしていたおばあちゃんは、私にとっていちばん身近にいる年寄りだった。小学生のときから、おばあちゃん=年寄り=死が近いと感じていたのだと思う。今にして思えば、当時おばあちゃんは60代後半。まだ若い。でも子どもにとっては、自分のおばあちゃんというだけでもう十分年寄りだったのだ。
小学生のころ、両親と西新宿の高層ビル街へ行った日のこと。いつものように三角ビルの展望台へ昇ってコックドールで食事をしたあと、普段ならそのまま家に帰るところを、たまたま通りかかった三井ビルの半地下で無料コンサートをやっているのを見かけてひととき聴いていった。家へ帰ってきてみると、おばあちゃんが玄関の前で座っていて、気分が悪いという。私はコンサートに寄って帰宅が遅くなったことを後悔した。おばあちゃんを家で一人で待たせてしまった。もう絶対コンサートなんか寄ってこないから、と思った。
おばあちゃんは私の誕生日に、いつもお祝いとしてお金を包んでくれた。
”由希ちゃん16才のおたんじょう日おめでとう”
”17才のおたんじょう日おめでとう”
”うるわしき18才のおたんじょう日おめでとう”
お金を包んでいた半紙の上には、毎年おばあちゃんが書いてくれた文字があった。いつからか私はそれを捨てることができず、ずっと紙入れにしまっておいた。あれはどこにいってしまったのだろう。実家を出たり、海外へ行ってしまったりして、その紙入れ自体が今はもうどこにあるのかわからない。
おばあちゃんが癌だとわかったのは、昨年の夏のことだった。98歳にもなって、癌。この歳では手術はもう無理だ、放射線治療も体には負担が大きすぎる、という話を聞いてうなずくしかなかった。せめてもの救いは、高齢ゆえに癌の進行がゆっくりだろうということ。残された時間はまだある。元気なうちにおばあちゃんに会おう。昨年秋に一時帰国したのは、そういう思いもあったからだ。
再びベルリンに戻ってから、年が明けて1月21日に家族からおばあちゃん危篤の連絡を受けるまで、時間は思いのほか早かった。そして、23日の夜に私が日本に着いたときには、おばあちゃんはもう、その日の朝に死んでいた。
生きているうちに会えたら、何か違っていたのだろうか。せめてもう一度手を握りたかった。でも、それは残された者のエゴでしかないのはわかっている。
「おばあちゃんは怒ったことがなかった」
「いつもやさしかった」
死んだとたんに、おばあちゃんについて語られるすべてのことは過去形になる。もうこの世にはいない。二度と会うことはできない。
道往く人、特に年寄りを見ると「この人たちは生きている」と思う。「生きて動いている」と思う。
生きていることと、死んでいることは違うのか。
以前、死んだ祖父母の霊を見る子どもたちの本を編集したことがある。霊と対話する子どもの姿を見た親は、わが子が死んだ祖父母たちに守られていると感じると書かれていた。確かに死んでしまった人たちだけれども、こうして会うことができるのだと。
私にはそんな能力は一切ないけれども、おばあちゃんのことを考えているとき、そこに生死の別はないような気がする。たとえば私がベルリンでおばあちゃんのことを考えるとき、おばあちゃんが日本で生きていても、いなくても、私のなかでは変わらないのではないか。いや、やはり違うのだろうか。もう新しい思い出をふやすことはできない。わからない。
残された者には現実の世界がある。泣いてばかりいるわけではない。
お通夜の前日、棺の中のおばあちゃんと会えたときは悲しかった。涙が出た。でもその足で私は家族とともにイタリア料理屋に行き、パスタコースを注文し、デザートまで平らげた。生きているとはそういうことだ。
おばあちゃんの話をここに書こうかどうか、とても迷った。このサイトは私個人のものだけれども、プライベートな出来事をそのまま書くつもりはない。
でも自分がすっきりするために書きたいと思った。だから私のエゴに、みなさんを付き合わせてしまってごめんなさいと思う。もし、最後まで読んでくれたのなら、付き合ってくれてありがとう。
おばあちゃんは今年、数えで100歳。最期は自分の子どもたちに看取られて、きっとさびしくなかったと思う。今日のお葬式にもたくさんの人が来てくれた。
よかったね、おばあちゃん。じゃあ、元気でね。