
あるとき、決意して飛んだんだよね。そうしなきゃいられなかったの
たまたま最近、自分がベルリンに来た理由や、幸せな人生とは何ぞやみたいな話をすることが続いた。
私がベルリンに来たわけは、以前のクボマガには書いていたんだけど、昨年のリニューアルを機に削除してしまったので、この機会にもう一度まとめてみることにした。自分のためにね。
私がベルリンに住み始めたのは2002年。その発端となったのは、ケルンに2ヵ月間滞在した2000年。
それまで私は、出版社をいくつか移りながら編集の仕事をしていた。雑誌編集、書籍編集、雑誌記者として取材・撮影......この当時の仕事が、今につながっている。
仕事は好きだったけど、精神的にも時間的にも追われて、常にストレスを感じていた。とにかく朝起きた瞬間から機嫌が悪い。ターミナル駅の人混みにイライラする。毎日を楽しいと感じられなかった。
ある日、出社途中の新宿駅で人とぶつかった。朝のラッシュ時なら(といっても、私は10時出社だったので、ピークはとっくに過ぎていたけど)、よくあること。「すみません」の一言でも交わし合えば、それで済むこと。
でも当時の私はいつもイライラしていたもんだから、その瞬間に殺意が芽生えて、思わずガンを飛ばしてしまったんだよね。
直後に「まずい」と思った。「このままここにいたら自分はダメになる」と。
それまでも、「たまたま日本に生まれたからって、なんでこんなに長時間働かなきゃいけないんだろう」「私の人生って何なんだろう」ってよく考えてたけど、この"新宿駅でのガン飛ばし事件"が、日本を脱出するひとつのきっかけとなった。
それ以来、とにかく日本を出なきゃダメだと考えるようになった。そこによみがえったのが、子ども時代に過ごした西ドイツでの記憶。
私は小学校6年生の1年間を、当時の西ドイツで過ごした。その町には日本人学校がなかったから、普通の現地校に入れられた。
ドイツ語も英語もまったくわからない。でもドイツでの滞在は1年間だけと最初から決まっていたから、親も私も気にせずに、意味不明のドイツ語に囲まれながら1年を過ごした(話が脱線するけど、今私が中国人に囲まれたアウェーの環境の中で中国ダンスを習っていて平気なのは、子どもの頃に鍛えられているからかもしれない)。
学校にアジア人は私一人。当時は、今よりももっとアジア人が珍しかったと思うし、アジアに対する知識も少なかったと思う。しかも、そのアジア人はドイツ語が全くわからないときてる。共通言語が何もない。
でも、誰も私のことをいじめなかったんだよ。みんな気にかけてくれたし、仲のいい友だちもいた。言葉ができなくても、子ども同士ならコミュニケーションもそれなりに図れるものなんだよね。
そんな感じで終わった1年間の西ドイツ滞在。そして、確か99年にその当時の滞在に関する催しがあって、家族で再びその町を訪れた。
その時に思い出したんだ、西ドイツでの日々。子ども心に、ドイツって住みやすいなあと感じていた。
そこへ起きたのが、最初に書いた"新宿駅ガン飛ばし事件"。日本を出るなら、行き先はドイツしかない。ドイツは私にとって、外国ではなかった。言ってみれば第二の故郷。よく知った場所。
そして2000年にケルンに飛んだ。ケルンに決めたのは、子ども時代に住んでいた町(ちなみにデュッセルドルフじゃありません)に近かったから。
ただしその時は、まだドイツで滞在許可を取ってちゃんと暮らすだけの決心はつかなかった。
でも2ヵ月の滞在+1ヵ月のドイツ旅行を終えて日本に帰ってきたときの、中途半端な気分といったら。
今度はちゃんと一定期間ドイツで暮らそうという決意は、このときになんとなく生まれたと思う。
ケルン行きを口実に、当時いた出版社を辞めたので、私は自動的にフリーになった。そうしたら、仕事をいただけるありがたみがわかるようになった。感謝の気持ちが生まれた。でもこの話はまた違うテーマになるので、またいつか。
今度ドイツに行くときは、もっとちゃんと暮らそうと、フリーで仕事をしてお金を貯めた。そして2002年にベルリンに来た。
行き先をベルリンにしたのは、それまで何回か旅行して肌に合う気がしたのと、ベルリンならライターとして日本の出版社に何か書けるかもしれないなと思ったから。今の状況を見ると、それは合ってたと言ってよさそう。
もっとも、ベルリンでの滞在は1年ぐらいのつもりだった。1年間リフレッシュして、また日本へ帰るつもりだった。
それがどうよ、今年は2012年。あれから10年が経つわけだ。
この話、勝手に次回へ続けます。