前にも書いたかもしれないけど、11月という月は、ドイツでもっとも自殺者が多い月だと聞く。真偽のほどは知らないが、この天気では納得がいく。
日照時間がどんどん短くなる。冬時間に変わって、日暮れが自動的に1時間早まることがこれに拍車をかける。寒い。行事的に見てもVolkstrauertag,Totensonntagなど、死者を慰霊する日が並ぶ。
そんな月のせいなのか、気づいたら私も鬱に襲われていたようだ。
ベルリンで暮らし始めて以来、この鬱な気分には何度も襲われている。何か特別なきっかけがあるわけではなく、気がつけば気分がブルーになっているのだ。悲観的になり、やる気が出ない。これまで私の場合は、冬よりもむしろ3月とか6月が危なかったのだが、今年はどうやら11月に来たようだ。
こんな経験は、日本に住んでいたときには一切なかった。ベルリンに来て、初めて知った感情だ。
これはたぶん、外国で暮らしているからだと思う。
日本に帰ると、人の多さやせわしなさにうんざりするが、根本的に感じるのは、そこで生きることのラクさだ。私は日本人だから、日本で生きることに関して何の疑問も感じなくてすむ。日本人で、日本で生まれて、日本で生きる。当たり前。
でも、外国で暮らすということはそうではない。私がベルリンで暮らす限り、常に「いつまでいるのか」「何のためにいるのか」という考えがついて回る。特に私は、会社などから命令されて赴任しているわけではない。好き好んで勝手にいるのだ。
そして、外国にいることの所在の無さ。ここで襲われる無力感、孤独感は、すべてこの「所在の無さ」から発生しているような気がする。
この街で友人や知人もできて、いろいろな人に助けられて、恵まれていると思う。でも、たとえば日本で家族とともにいるときに感じるような、「自分は無条件でここにいていいんだ」という安心感は、外国では得られない。
きっと、どこまでいっても、この「所在の無さ」感はなくならないだろう。仮にここで家族ができたとしても(私は日本で結婚しているのでそれはあり得ないが)、この気持ちは消えないと思う。
でもこの「所在の無さ」は、裏返せば束縛とは無縁の気軽さだともいえる。
外国人でいることの、所在の無さと気軽さ。外国で暮らすということは、この2つを持ち続けていくことなのかもしれない。